ハロー・ワールド - 3/4

幕間 ある女の子のお話

 あるところに、アートが大好きな女の子がいました。彼女がアートを好きになったのは、小学生になったばかりの頃に、少し年の離れたお姉さんと一緒に、半ば無理矢理連れて行かれた両親のデートコースに都内の美術館があったことがきっかけでした。
 まず、建造物としての美術館という存在そのものが持つ非日常性に幼い女の子は圧倒されました。常設展示では、白を基調とした広い空間に、見たこともないような大きさの絵が展示されており、その迫力に飲み込まれたように一つ一つに見入っていました。彼女の両親は、普段口数が多く手のかかる女の子が、美術館に入ってから途端に静かになったことを不思議に思いながらも、体調を崩したわけでもなさそうだったので、久々に二人っきりの時間が過ごせると考え、女の子の世話をお姉さんに任せて自由に鑑賞をすることにしました。よって、女の子は時間の許す限りにアートを堪能することがでたのです。特に女の子にとって印象深かったのは「インスタレーション」という言葉が掲げられた企画展で、そこには水玉模様が部屋一杯に敷き詰められた部屋があったり、布で作られた透き通る家があったり、床にキャンディが敷き詰められていたり、常設展での絵画や彫刻と違う、その場所や体験そのものがアートとして展示されていました。そして、それらのアートは、女の子の世界の見方をすっかり変えてしまうぐらいには衝撃的だったのです。
 美術館を出て車に乗ってからも、女の子の口数はすぐには戻りませんでした。展示物から手に取ったキャンディを口の中で転がしつつ、あの場所で見たものを忘れないようにじっと目を閉じていました。
 その体験以来、女の子はアートの本を片端から読み始めました。図書室にある子供向けのアーティストの伝記や、美術の図鑑などを読み尽くした後は地元の図書館に通い詰め、少し難しい本も辞書で意味を調べながら読み進めました。すべては、あの日の衝撃にどうにか辿りつきたいと思ってのことでした。
 その影響は、まず女の子の口調に現れてきました。
 例えば、朝起きたとき。
「グッドモーニングです! 今日もロコはベリーファインです!」
 例えば学校の授業中に先生から当てられたとき。
「ティーチャー、そのクエッション、とてもインンタレスティングですね!」
 例えば夕飯のハンバーグを食べているとき。
「このハンバーグはベリーデリシャスだと思います!」
 この頃から、女の子は自分のことを「私」ではなく、「ロコ」と呼び始めました。
 中学生になってから、女の子、つまりロコは、インプットからアウトプットへの方向へと没頭し始めました。
 手始めに、彼女は美術の先生と交渉し、学校の美術室を使用する権利を手に入れました。美術の先生にとっては、学校の勉強の範疇を大幅に超えて美術の話が通じる生徒がいることがとても嬉しく、ロコの活動に対して陰ながら全面的に支援がなされました。具体的には、下校時刻を過ぎての美術室使用や、アトリエとしての美術準備室の提供です。要するに、ロコは非公式な美術部として活動できる立場を保証されたのです。
 しかるべき場所を得た彼女は、日々、陽が落ちるまで美術室にこもって制作活動に勤しみました。
「ロコは、ロコのワールドをエクスプレッションしたいんです!」
彼女は口癖のようにそう言い続けました。
 しかし、彼女が作ったものは、必ずしも、周りに認められるものではありませんでした。彼女の作品に対しての周囲の評価の多くは、「発想の突飛さや制作に費やした労力は認められるものの、何を表現しようとしているのかがわからず、評価が出来ない」といったもので、これに関しては美術の先生も認めざるを得ないものでした。その事実に、女の子は少なからず歯がゆい思いをしていました。
ある日、彼女は一つの作品をつくり上げました。一ヶ月間、寝る間を惜しんで作成したオブジェです。とても手で持てるような大きさではなく、彼女はその小さな背中をめいいっぱい使って、それを発表する場__彼女の通う学校__へと作品を運んでいました。その足取りは疲労のため重いものでしたが、彼女の瞳はキラキラと輝いていました。この作品ならきっと、という期待も少なからず込められた瞳でした。ゴールデンウィークを控えた学校は高等部と合同の学園祭をすぐそこに控えていました。
 ところで、彼女の学校は高台にあり、辿り着くためには少々急な坂を登らなければなりませんでした。寝不足と作品の重さで姿勢を何度か崩しそうになっていた彼女は、坂を登る前に少し休憩しようと考えました。幸い、坂の下には小さな公園があり、木陰にはいくつかベンチも置いてあります。彼女はなんとかベンチにたどり着くと、脇に作品を下ろし、背もたれに体を預けました。季節は春。うららかな日差しに誘われて、彼女の瞳が閉じるまでに時間はかかりませんでした。
 大きな音がして、彼女は目を覚ましました。既に日は高く昇り、少し汗ばんでいるのを感じます。少々はっきりとしない頭のまま、目の前をみると、公園で遊んでいた子どもたちが一斉に彼女の方を向いていることに気づきました。……正確には、彼女の少し脇のほうを。とても、嫌な予感がしました。全身の汗が冷たくなっていくのを感じます。その目線の先に、彼女がおそるおそる目をやると、果たして、オブジェは、半分の高さになってしまっていました。そして、呆然と見つめた彼女の足元には、勢いを無くしたサッカーボールが転がってきました。
 よほど深刻な顔をしていたのでしょう、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝る子どもたちに反応することも出来ず、彼女は二つになってしまったオブジェを家に持ち帰りました。直せば、元通りになるかもしれません。しかし、彼女の心は、オブジェと同じように折れてしまっていました。
「どうして」
 彼女のアートがたくさん詰まった部屋の中で彼女は呟きます。
「どうして、こうなっちゃうのでしょうか」
 誰も応える人は居ません。そんな当たり前のことでさえ、まるで、世界から存在を無視されてしまっているように、今の彼女には感じられてしまいます。
認められたい、なんて思ってしまったのがいけなかったのでしょうか。自分が好きなものを、皆にも好きだと言ってもらいたい、と思うことは、傲慢なことだったのでしょうか。
 そのとき、コンコン、と部屋のドアが叩かれました。
 ノックの主は母親で、ドア越しに彼女宛に郵便で届いていた封筒を手渡されました。手渡しがてら気遣わしげに、大丈夫かと聞く母親に「ドントウォーリーです!」と出来る限りの笑顔で答え、彼女は部屋のドアを閉じました。母親には悪いと思いましたが、今は一人で居たい気分でした。
 彼女が封筒を開けると、その中には、黒い正方形のケースが入っていました。表面には『Hello World』と書いてあります。どうやら、ゲームソフトのようです。インドア派である彼女は、対応しているゲーム機を持ってはいましたが、ゲームを送られてくる心当たりは全く無く、さらに今はとてもゲームを遊ぶ気分ではなく、溜息をつきながら机の上に裏向きにしてケースを置きました。そのとき、裏側に書かれている言葉が目に入りました。「この世界をつくるのは、あなたです」。何故か、彼女はその言葉から、目が離せなくなりました。
 気が付くと、彼女はゲームを起動していました。私が主人公の、私だけの世界。きっとここなら。彼女は何かに縋るような気持ちで、コントローラーを握ります。
 ゴールデンウィーク中、彼女は一歩も部屋から出ませんでした。

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