あいにいく

 東京での生活は、移動の基本が電車だから、距離は時間と金額で換算される。自転車には乗らなくなった。
 乗り換え案内アプリは必須になって、この夏休みに初めて金沢へ帰るときに「出発:東京」「到着:金沢」を入力したら、当たり前のように乗車時間と運賃が出てきて海瑠はその当たり前に少し拍子抜けしてしまった。2時間半と指定席1万5千円分の距離。
 スマートフォンに表示されるその画面を海瑠は実家の自室の布団に横になって眺めている。目覚めてから時計の長針は一周しかけていて、母親のくるみは起きてこない娘に構うでもなくとっくに仕事に出掛けている。出掛ける前にひと言声をかけられたのは覚えているが、海瑠がしようとした返事が届くように発声されていたかどうかは定かでない。
 薄暗い部屋の中でブルーライトの光を浴び続けることへの罪悪感に耐えられなくなったところで、海瑠は観念して身体を起こす。布団から立ち上がって電気を付けると、ぬいぐるみだらけの部屋が明るく照らされた。出て行くときには今生の別れのようにも思え、海瑠の寂しさの一端を担っていた彼らは変わらずにそこにいて、部屋の主である海瑠を無感動に迎えた。
 自室から外に出ると夏の熱気が海瑠を襲う。海瑠は夏が嫌いだ。茶の間のテーブルには「朝ご飯は自分で作ってね」と素っ気ないメモ書きが置いてある。海瑠は短くため息をついてからトーストを焼き、ジャムを塗り、ミルクと一緒に流し込む。
 身支度を調えると時間は十時になっていて、海瑠は玄関を出て戸締まりをし、玄関脇に停めてある自転車に乗る。蝉の鳴く音を遠くに聞きながらペダルを踏む。久し振りに踏んだペダルは漕ぎ出しこそ少し重たく感じたが、すぐに身体に馴染んだ。
 東京に比べて、空が広い。東京の街を歩いているときに空が狭いとは感じなかったのに、知っているはずの景色に対して発見があることに、海瑠はようやく地元を離れたのだということを実感する。
日差しが海瑠の肌を焼いている。汗が噴き出てくる。なんでこんなことをしているんだろうと海瑠は思う。やっぱり夏は理不尽だ。やはり今から戻って冷房の効いた自分の部屋に引きこもるべきなのかもしれない。
 海瑠は今年の2月3日、節分の日の夕方を思い出す。海瑠は呼び出されて、近所の寂れた神社に来ていた。節分だからといって特に催しがあるわけでもないようで、人影はほとんど無い。海瑠を呼び出した当人は、お社に向かって立っていて、海瑠が声を掛けるとくるっと振り向いた。人ではなく鬼だった。
 手渡された袋には豆が詰まっていて、鬼は鬼ごっこをやろうと海瑠に言う。ただし、逃げるのは鬼のほうで、豆を当てられたら負け。追いかけるほうは「鬼は外」と声を出しながら豆を当てなければならない。海瑠が唖然としていると、「それじゃ、30秒数えてから追いかけてきてねー」と鬼は目の前から姿を消してしまう。それでも30秒、律儀に待ってから海瑠は鬼を追いかけ始めた。お社の裏で鬼を見つけてからは、逃げる鬼を追いかけ、背中に向けて豆を何度も投げつけたが、鬼の足が速いのでなかなか当てられない。一度始めてしまうと、海瑠も後に引けなくなり、何周か神社の境内をかけ回ったがやはり豆は届かない。しかし、いよいよ最後のひと掴みとなったところで、鬼は走る方向を変え、お社の前に戻っていった。
「さすがに限界ですか? さあ観念してください」
 息を切らせながら追いついた海瑠は、こちらを向いた鬼に最後の一投を放る。
「鬼は外!」
 豆はファスナーの開いたジャンパーから見えるTシャツにプリントされたドクロマークに当たり、地面にパラパラと落ちた。そして鬼はそのプラスチックの面を頭の上に持ち上げる。隠れていた顔が見え、鬼は人に戻った。
「いやー、やられちゃった。アタシの負け」
 そうやって笑っていた表情は、今思い返すと、何か憑きものが落ちたようにも見えなかったか。
 考えすぎだ、と海瑠は頭を振る。しかし、事実として、海瑠が上京してから8月の今まで、一度も東京に来なかった。最後の放送で、あんなに言っていたのに。
 音信不通というわけではないから、呼べば良かったのかもしれない。でも、断られてしまうことが怖かった。2時間半と1万5千円で表される距離に特別はもう感じなくなったけれど、そのぶん距離が距離として厳然としてあることにも気付いた。
 今日、海瑠は連絡を取っていない。そもそも実家に帰省していることも伝えていない。だから、無駄足に終わる可能性もある。本当に何をやっているんだろう、と海瑠は思う。それでもやはり、ペダルを踏む足は止まらない。その理由を海瑠は考えない。何かを振り切るようにスピードを上げる。
 彼女の部屋まで、あともう少し。

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