君・思・想・愛 - 1/3

愛は祈りだ。僕は祈る。
――舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

病室

 放課後、霧子はまっすぐ大学病院に向かう。
 外来入り口の自動ドアの前を通り過ぎて、少し裏に回ったところにある従業員出入り口に着くと、バッグからネックストラップ付きのカードホルダーを取り出し、リーダーにかざしてドアを開ける。入ってすぐにロッカー室があって、霧子は学校の制服から、病院の制服に着替える。制服といっても、ナース服ではなく、淡いブルーが下地のストライプ柄のワンピースの上にエプロンを着けたもので、霧子にとっては学校の制服か、それ以上に愛着があるものだ。入り口でかざしたカードホルダーを首にかければ準備は完了で、霧子はロッカー室を出て事務室へ向かう。部屋に入ると、馴染みのナースからさっそく声を掛けられる。
「あ、霧子ちゃん、お疲れさま! そこに、旅行行ってた子からの、お土産置いてあるから、取っていっていいよ」
「わあ……! ありがとうございます。いただきます」
 机上の『ご自由にどうぞ♡』と手書きのメモが挟まっているクッキーの箱からひとつ手に取り、ポケットに滑り込ませてから、壁にかけてある出勤ボードの「幽谷」のマグネットを左側の枠に移動させた。正式に勤めているわけではないが、仲間の一員だと思ってくれているように感じられて、霧子は嬉しく思う。
 霧子が病院の手伝いを始めたのは高校に入ってからで、もう半年が過ぎようとしていた。病室の清掃、シーツの洗濯、食事の配膳、また、入院している、まだ幼い子供たちの話し相手になることもあった。そのため、霧子のカードには平仮名で「ゆうこくきりこ」と名前が書いてある。
 病院を手伝わせてほしい、とお願いしたとき、アルバイトとしての採用も提案されたが、厚意で寮に住まわせてもらっていることの恩返しの意味もあり、霧子はあくまでボランティアとしてやらせてほしいと懇願した。何より、病院での仕事は、霧子にとって、とてもやりがいのあるものだったし、他の同級生が部活動をしていることと、大きな違いはないと考えていた。
 病院に通っているうちに、簡単な応急処置や医療知識は自然と増えていった。それは学校でも生かされる場面があって、誰かが怪我をした時に素早く適切な対応ができることに、霧子は一目置かれ、頼りにされていた。あまり自分に自信が持てず、引っ込み思案なところがある霧子にとって、学校での自分の役割を作ってくれたという意味でも、病院のボランティアには感謝していた。
 霧子は今日も、病室を回って窓拭きなどの清掃をこなしていく。ある程度の期間入院している患者さんとは顔見知りにもなり、会釈や挨拶、短い会話などの交流もあって、自分が掃除をすることで患者さんの気分も少しは晴れるだろうかと思うと、自然と身も入る。
 四人部屋が終わると、個室の病室のエリアへ移る。そして、中でも奥まったところにある一室に入るとき、霧子は少し立ち止まって深呼吸をする。病室の名札には、「鳳直人」と書いてある。
 鳳氏は、老年の男性で、この病室に入ってから、そろそろひと月になる。病状についてはプライベートに関わるところなので霧子も尋ねることはなかったし、もちろん聞かされることも無かったが、この病室に入った人は長く居ることが多い、ということは確かだった。彼はずっと眠っていて、霧子が訪れた時に目を覚ましていることはなかった。そもそも、意識が戻ることがあるのかどうかもわからなかった。
 だから、霧子は、彼の邪魔をしないように、そっとドアを開ける。今日も、静かに掃除を終えて部屋を後にするつもりだった。
 しかし、今日は、病室に先客がいた。その人は、ベッドの側に、椅子に座っていた。鳳氏と同じぐらいの年齢と思われる、老年の女性だった。
 彼女は目を閉じていて、両手を組んで、膝の上に載せ、背筋を伸ばして、そこに佇んでいる。短くパーマのかけられた白髪と、鎖の付いた丸い眼鏡をかけていて、白いブラウスの襟元には青色のブローチ、黒色のロングスカートから見える足下には同色のヒールが覗き、服装からも気品が伝わってくるようだった。
 まるで、時が止まったようだった。一枚の絵画に目を惹かれて、そこから動けなくなるような。
霧子にとって、病院にあるのは患者それぞれの生活で、その生活の一部になることが、日常だった。しかし、今、この病室は、彼女によって、霧子にとっての日常から完全に切り離されていた。
しかし、彼女はすぐに部屋に入ってきた霧子に気付き、閉じていた目を開けて、霧子の方へ顔を向けた。少し驚いたような表情だった。
 霧子は焦った。なにか、大切なものを壊してしまったような気持ちだった。
「あ、あの……お邪魔してしまってごめんなさい!」
 霧子は手を胸にあてて頭を下げる。きっと自分は、今、ここに来てはいけなかったのだろう。そのまま踵を返して病室を出ようとしたその背中に声が投げかけられた。
「待ってください。大丈夫ですから」
 霧子は足を止めておそるおそる声の方向へ顔を向ける。声の主は微笑んでいた。ベッドの側の椅子に座ったまま、身体も霧子の方へ向けている。
「こんにちは、こちらこそ、驚かせてしまったみたいでごめんなさい。ご用があっていらしたのでしょう?」
「こ、こんにちは。あの……わたし、病院のお手伝いをしてて……お部屋の掃除を、させていただこうと思って」
「まあ、そうだったの。病室がいつも綺麗なのはあなたのおかげなのね。ありがとう、きっと主人も喜んでるわ」
 彼女、鳳夫人はそういって彼女の夫を見遣る。変わらずにベッドで眠っている彼の表情は穏やかだった。
「ありがとう、ございます。あの……わたしだけじゃなくて、この病院のみなさんが、患者さんに気持ちよく過ごしていただきたいって……そう、思ってますから、とても、嬉しいです」
「……ふふ、そういう風に答えるのね。ねえ、もう少し、お話しても良いかしら? あなたのこと、もっと知りたくなっちゃったみたい。ずいぶん若く見えるけど、学生さんかしら?」
「は、はい。わたしは、高校生で――」
 夫人の声が楽しそうに弾んできて、霧子もそれに引き込まれるように話を始める。出身は青森で、高校生になってから上京してきたこと、父親の伝手で、この病院の寮に住まわせて貰っていること。病院の手伝いは、その恩返しであること。病院の人たちはみんないい人たちで、とても居心地が良いということ。
 夫人は霧子が話している最中、ずっと霧子の目を見て頷きつつ、時折質問を挟みながら話を聴いていた。そのおかげで、霧子は普段自分からは話さないことをすらすらと話すことができた。
 ひとしきり話し終えると、ありがとう、と夫人は言って、少し前にかがんでいた姿勢を直した。
「あなたのことが知れて良かったわ。思った通り、とても素敵な方ね。でも、お邪魔してしまったわね、ごめんなさい」
「いえ、そんなことは……こちらこそ、お話を聞いてくださって、ありがとうございます。それじゃあ……お掃除、始めますね」
 少し喋り過ぎたかも知れない、と少々恥ずかしくも思いつつ、会話をすることで打ち解けられたこと確かで、霧子は気兼ねなく部屋の掃除をすることが出来た。霧子が掃除している間、夫人は変わらずにベッド脇に座り、夫を見つめていた。
 その様子を見ていて、霧子は夫人に伝えたい思いがこみ上げてきていた。あの、止まっていた時間について。
 一通り掃除を終えたあと、霧子は意を決して夫人に話しかけた。
「あの、わたしからも……良いでしょうか? お伝えしたいことが、あって」
「ええ、もちろん。まだお話ししてもらえるなんて嬉しいわ」
 霧子は少し間を置いてから、ゆっくりと話し出す。
「わたしが、病室に入ったときに……椅子に座って、目を閉じていらして。それが、とても……綺麗だって思ったんです。まるで、絵を見ているみたいで……とても、静かで、でも想いが……満ちあふれているみたいで、あったかくて……」
 霧子はこうやって自分が感じたことを言葉にすることに対して、いつももどかしさを感じていた。それが自分にとって特別に思ったものであればあるほど、他人には上手く伝わらない、ということも、経験的にわかっていた。
 それでも、今、この人に伝えたいという気持ちが勝って、霧子はできるだけ、自分が感じたままに、話そうと思えた。
「だから、とても……大切な時間だったんじゃないかって……わたしが、部屋に入ってしまったから、それが、無くなってしまったのだとしたら……とても、悪いことをしてしまったんじゃないかって。そう思ったから、謝ってしまったんです」
 少しずつ、彼女の中にある言葉を拾うようにして、ゆっくりと話した霧子を見て、夫人は目を丸くして霧子を見ていた。
 その反応を見て霧子は、また失敗したかもしれない、と思ったが、夫人の表情から驚きが引くと、先程までとは別種の、落ち着きと穏やかさを湛えているような微笑みが浮かんでいた。
「お祈りを、していたの」
 そして、夫人は伏せっている彼女の夫の方に向くと、彼の手に、自分の手を重ね合わせた。
「夫がこうして入院するのは、これが初めてではなくて。もう何度も、入院しては退院してを繰り返しているの」
 夫人が話す声色には、深い慈しみがあった。
「初めは、この人に治ってほしいという気持ちだけだと思ってた。でも、だんだんと、それだけじゃなくなってきたの。気付いたら、この人とこれまで過ごしてきた時間を思い返している時間の方が長くなっていたわ。助かってほしい、目覚めてほしいという気持ちは変わらずあるの。でも、それだけじゃなくて、もう、この人との時間が終わってしまうことについて考えるような風になってしまっていて。こんなのじゃいけないのかもしれない、なんてことも思っていたわ。でも、」
 夫人は霧子のほうを向き直った。目の端には涙が浮かんでいた。
「あなたが、私の、いえ、私たちの姿をみて、綺麗だって思ってくれたのなら、この気持ちは、きっと間違いじゃないのね。本当に、ありがとう」
 そう言って夫人は立ち上がり、霧子に向けて深く頭を下げた。
 霧子は、気持ちがいっぱいになってしまっていた。まさか、自分の言葉が、こんなふうに人に届くなんて、想像できなかったからだ。
 夫人が頭を上げたところで、霧子も夫人に対して頭を下げた。
「わたしのほうこそ、ありがとうございました。いつも……私の言葉は、伝わらないって思ってたんです。今日も……話そうかどうか、迷ってて。でも、伝えられて……良かったです。たくさん……頂いてしまいました。きっと、今日のことは、忘れません」
 そう言って霧子は自身の精一杯の感謝の気持ちを伝え、振り向いて部屋を後にしようとしたが、そのとき、夫人から声をかけられた。霧子が振り向くと、夫人は霧子に向けて、手を合わせていた。
「ねえ、最後に、あなたにも祈らせていただけないかしら。あなたが、あなたの言葉を届けられる場所を見つけられますように」

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