第二幕 七尾百合子
「そういえば、とあるゲームを手に入れたんです」
放課後の図書室、部屋の奥のほうの机に、私と七尾さんは向い合って座っています。七尾さんの手元には、分厚いファンタジー小説。私の手元には、明日の宿題のための教科書とノート。図書室に来る目的はお互いに全く違いますが、二人がこの図書室のヘビーユーザーであることは間違いありません。
「 『Hello World』 と言うタイトルなのですが。これがですね、いわくつきのゲームらしいんですよ」
七尾さんは鞄から取り出したゲームのパッケージを私に見せてくれます。黒い正方形のケースは、そう言われると少し不気味に思えてきます。
「いわくつき……ですか?」
「そうなんです! なんでも、このゲームをクリアした人は、その世界から消えて、このゲームの世界に吸い込まれてしまうらしいのです!」
その発言内容の不穏さに反して、七尾さんの声色と表情は、キラキラと輝いているように見えます。なるほど、七尾さんが好きそうな「お話」です。
「それは、とても、怖いですね……ぶるぶる」
「でも、ワクワクしますよね?」
ほら、やっぱり。七尾さんはやる気満々です。こうなった七尾さんを止めることが出来る人は少なくともこの学校には存在しません。
「ワクワク、ですか」
「はい! だって、自分がゲームの世界の主人公になれるかもしれないなんて、とっても素敵じゃないですか!」
机越しにググッと顔を寄せてくる七尾さん。その表情は、物語に夢中になっているときと全く同じです。七尾さんとの交流が始まったのも、思えば、この表情がきっかけでした。
私と七尾さんが知りあったのは、もちろんこの図書室です。私はよく放課後に図書室で勉強をするのですが、ほぼ毎日のように本を探しに来ている七尾さんの姿は、自然と私の目に止まっていました。あるとき、テスト前で図書室が比較的混んでいる時、たまたま私の目の前に座った七尾さんは、皆がノートに向かっている中、堂々と重たそうな本を広げました。そして、周囲の様子など一切気にせずに、ものすごいスピードでページを捲り始めました。ページを捲るたびに七尾さんの表情はめまぐるしく変わり、それを見て私は、本を読むという行為についての認識を少し改めなければなりませんでした。その様子があまりにも楽しそうだったので、思わず「何を読まれてるんですか」と声をかけたところ、七尾さんは、それはそれは目を輝かせて、下校時刻まで熱心にその本の面白さを語ってくれました。私はその時の七尾さんの表情がとても気に入ってしまい、私にしてはとても珍しいことに、図書館で七尾さんを見かける度に声をかけるようになりました。そして、放課後の図書室での七尾さんとのひとときは、気づけば日課となっていました。
七尾さんのお話は、毎日話していても尽きることがありませんでした。七尾さんが語る小説のジャンルは太宰治、トールキン、ブラッドベリと、純文学からファンタジー、SFまで、多岐にわたります。また、七尾さんのお話は小説だけにとどまらず、最近面白かった漫画、アニメ、ドラマ、ゲームについても、時折話をしてくれました。更には、「最近、魔法使いが目撃されているらしい」なんて都市伝説めいたものも。とにかく、そこに「お話」があるもの全てを、七尾さんは愛していました。
閑話休題。
流石に周りの目線が集中していることに気が付いたのか、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、七尾さんは椅子に座りなおしました。
「……もちろん、そんなことは実際にはありえないってことぐらい、私にだってわかってます。でも、そういうシチュエーションの中に居られるってことが、とても、楽しいんです」
「それは、とても、七尾さんらしいですね」
七尾さんは、「お話」が大好きな分、「お話」に対してどこか客観的なところがあります。その上で、「お話」の中に飛び込んでいくのが七尾さんです。
「瑞希さんが、そう言ってくれるの、なんというか、すごく、ホッとします」
そう言いながら、ゲームのパッケージを鞄にしまう七尾さん。そろそろ、下校の時刻です。私も、机の上のノートと教科書を鞄にしまい込みました。もちろん、今日の分の宿題は全部終わっています。ぶい。
帰る方向が逆なので、七尾さんとは校門前でお別れです。
「瑞希さんに、今日、ゲームのことを話せてよかったです」
「是非、後で感想を聞かせてください。七尾さんの話は、いつも、大変興味深いので」
「わかりました! 任せてください! すぐにクリアしちゃいますから!」
そういって手を振って帰っていく後姿は、夕焼けに溶け込んでいくようで、私は少し目を細めました。そして、私は私の帰途につきます。
自宅について、まっすぐ自室に向かいます。両親は共働きなので、まだ帰ってきていません。いつも通り。
鞄を置いて、まず私はコンポの電源を入れて、音楽をかけました。かかっている音楽は、以前、七尾さんから借りた、ゲームのサウンドトラックです。七尾さんがゲームの話をしているときに、何かおすすめがないかを訪ねたときに、このゲームとサウンドトラックを私に貸してくれました。
私は、ベッドに仰向けになり、目をつぶってその音楽を聴きました。すると、自然とそのゲームの情景が浮かび上がってきます。主人公が、荒野をバイクで走っているシーンです。主人公は旅人で、特にあてもなく、世界各地を彷徨っています。プレイヤーは彼の行き先を決めることしかできず、ただ彼が出会う出来事を、彼とともに傍観するだけです。荒廃した世界での出来事は悲劇ばかりでしたが、彼は旅をやめませんでした。彼が旅をやめなければプレイヤーである私もまた、旅をやめることができません。あまりに救いがないため、途中で辛くなってしまい、ゲームをやめようとも思いましたが、そのたびに紹介してくれた七尾さんの顔を思い浮かべ、旅をつづけました。結局、その旅人は世界中を巡っても最後までハッピーエンドを見ることができませんでした。
学校からの帰り道、ゲームを七尾さんに返すとき、七尾さんは私に「どうでしたか?」と訪ねてきま した。私が返答に困っていると、七尾さんはこう、呟きました。
「The world is not beautiful. Therefore, it is」
あまりに唐突に放たれたその言葉に私が驚いて七尾さんの顔を見ると、七尾さんはすこし悪戯っぽい笑みを浮かべながら私に言いました。
「昔、読んだ本に書いてあった言葉なんです。私、この言葉が大好きで、このゲームをやったときに、すぐに思い浮かんだんです」
「いったい、どういう意味なのですか?」
「世界は美しくない、それ故に美しい」そのような意味になるのでしょうか。言葉だけでは、到底真意をつかむことができません。
七尾さんは、少し黙った後、私の疑問に答える代わりに、質問を返してきました。
「そのゲームで、主人公の旅人は、いろいろな世界を見たと思います。そして、どこへ行っても待ち受けるのは悲劇ばかりで、普通だったら、途中で旅をやめてしまうと思うんです。でも、旅人は世界中を回りきったんです。その、美しくない世界を。どうしてだと、思いますか?」
「……わかりません」
七尾さんは謡うように続けます。
「私は、きっと、そういう世界があることを見届けること、それ自体が、とても美しいことなんじゃないかなって思うんです。何かがどこかで起きていることを知らないままでいること、知ろうともしないこと、それはたぶん、どんな悲劇よりも悲しいことなんじゃないかなって」
私は目を覚ましました。時計を見ると、さっきから1時間ほど時間が経っています。私は、キッチンに行きケトルでお湯を沸かしました。無性にコーヒーが飲みたくなっていました。
週が明けた月曜日、七尾さんは、図書室に姿を現しませんでした。もちろん、私も七尾さんも、ほぼ毎日図書室通いをしているとはいえ、たまには来ない日もあるので、別に驚くことではありませんでしたが、昨日の話の続きを聞くのを期待していたので、少し残念には思いました。LINEでメッセージを送ってみましたが、その日、反応はありませんでした。
しかし、その翌日、翌々日も、七尾さんは図書室に姿を見せませんでした。メッセージへの返信も相変わらずありません。さすがに心配になって、七尾さんのクラスまで向かい、教室に残っていたクラスの人に七尾さんについて聞きましたが、返ってきた言葉は信じ難いものでした。
「七尾さん……? そんな子、クラスにいたかなあ?」
私は、すぐに学校を出て、七尾さんの家の方向へ向かいました。実際に行ったことはありませんが、大体の場所は前に聞いたことがあります。知らない場所ではないので、おそらく、探せば見つかるはずです。
住宅街に着き、一軒一軒表札を見て回っていると、日がほとんど落ちて、あたりが暗くなってきました。これ以上は今日は無理かもしれない、そう思ったとき、ある家の前に人影が立っているのを見つけました。その人影は、しかしそこへ向かう私の方を向いていました。とても、嫌な予感がしましたが、それでも、ある種の確信があり、私はその人影のいる家の前に向かいました。
果たして、その家の表札には「七尾」と書いてありました。そして、私は、家の前に立っている人影と対峙しました。その人影、いえ、彼女は、奇抜な格好をしていました。黒い三角帽子に黒いローブ。そして右手には箒。その姿は、魔法使いそのものでした。そして、その魔法使いは無表情に私に話しかけてきました。
「七尾百合子は機密事項に触れたため、この世界から消えました。この事実はこの世界にとって致命的な脅威にはなりえませんが、彼女が居たという記録はこの世界に不調和をもたらします。よって、あなたの記憶から、七尾百合子の情報を消去します。これは、決定事項です」
そう言って、魔法使いは左手を私の頭の上に伸ばしました。