喫茶店
たまたま仕事の終わるタイミングが一緒だった霧子と咲耶は、駅近くのショッピングセンターにある喫茶店に来ていた。
この喫茶店は「いつもの場所」のうちのひとつだ。感謝祭を終えて、アンティーカの皆で改めてそういう場所を決めておこうと話し合い、いくつかの候補地、事務所や喫茶店を、「行くところが決まってなかったらとりあえずここ」という意味で「いつもの場所」として決めたものだ。もちろん、それらは以前から馴染みのある場所ではあったが、敢えて名前をつけることに意味があった。港に灯台を建てるようなものだね、と言ったのは咲耶で、霧子はその言葉が印象に残っていた。
「おっと、恋鐘ももうすぐ仕事が終わるからここに来るそうだよ。どうやら、今日も賑やかなティータイムになりそうだね」
「ふふっ、そうだね……」
注文した紅茶が届き、お互いに一口含んだところで、再び咲耶が口を開いた。
「そういえば、この前話した、倫理のテストなんだけどね、ほら、デカルトのことを話しただろう。おかげさまで、結果は上々だったよ。ありがとう、霧子」
「そうなんだ……! でも、わたしは、ただお話ししただけで……」
「いや、こういうことは、誰かと話すことで、より理解が深まるものなんだと思うんだ。だから、間違いなく霧子のおかげだよ。霧子の言葉が必要だったんだ」
「わたしの、言葉……」
胸に手をあてて反芻する霧子の様子に、咲耶は少し首を傾げた。
「えっと、霧子? 何か気になることを言ってしまったかな?」
「あ、ううん、そうじゃなくて。ちょっと、思い出したことがあって。前に、言われたことがあるの。『あなたの言葉を届けられる場所を見つけられますように』って」
「それは、とても素敵なことじゃないか。その人は、きっと霧子のことをよくわかっていたんだね」
そう言って微笑む咲耶の表情は優しい。
霧子は、アイドルになることで、霧子にとっての「言葉を届けられる場所」を手に入れられたのかもしれない、と思った。アイドル活動を通して、以前より自分が感じたことを話すことにためらいがなくなっていた。むしろ、それこそが霧子に求められているもので、腕に巻いた包帯さえも含めて、霧子が霧子でいることを肯定されている今の場所にいることを、プロデューサーも言っていたように、奇跡のように思ってしまう。
霧子はしばらく口を閉じて、カップに注がれた紅茶の表面を見つめていた。一方の咲耶は紅茶を口に運びながら霧子を見ている。店内に流れるジャズと周囲の話し声がしばしの時間を埋めていく。会話がないことが苦痛ではなく、むしろ心地よさがあるから、きっとこのまま何も言わなくても良かった。
「咲耶さん、わたしね、ときどき、不思議な感じがするの。わたしの言葉ってどんな風に届いてるんだろうって」
しかし、だからこそ、今なら霧子はこうやって言うことができる。ちゃんと届くと信じられる場所にいるからだ。
咲耶は少し意外そうに霧子のことを見ていたが、ふむ、と少し思案するように顎に手を当てながら、「答えになるかどうかはわからないけれど」と、前置きしてこう答えた。
「倫理のテストの返却が終わった後、先生はこう言ったんだ。『デカルトは、自分の感覚、身体すらも疑うことによって、彼の哲学を打ち立てたけれど、感覚についての真偽を考えるのではなく、自らの感覚そのもの、まさに自分が今見ているものについて考える哲学もある』とね。先生は、代表的な哲学者に、フッサールという人の名前を挙げていたよ」
「フッサールさん……」
「それを聞いて、私は霧子と話したときのことを思い出したんだ。ほら、霧子は、今見ているものが、夢でも、夢じゃ無くてもかまわないと言っていただろう? それは、霧子は、霧子が見ているありのままを、とても大切にしているからなんじゃないかと思うんだ。霧子の言葉の素敵なところは、そこにあるんじゃないかな……おや、どうやら到着したようだね」
咲耶はそう言うと、霧子が座っている席の後ろ、店の通路側に目を遣り、店内をキョロキョロという音が聞こえてきそうな仕草で見渡している、大きなリボンで髪を一つ結びにしている人影に声をかけた。
「恋鐘、こっちだよ」
「咲耶! そんな奥の方におったんやね、全然気付かんかった~」
「恋鐘ちゃん、お疲れ様。今日は、撮影?」
「霧子も、お疲れ様! そう、こいのモデル! いいやろ~?」
恋鐘がバッグから取り出したのは有名な女性ファッション誌で、ピンクがアクセントで使われているデザインからは甘くフェミニンな雰囲気が伝わってきて、霧子が手に取るには少し気後れしてしまうものだが、恋鐘だったらとても似合うだろうと思うと嬉しくなる。
「うん……すごく、恋鐘ちゃんに似合ってると思う。出来るの……楽しみだね!」
「ありがとう! 届いたらみんなに見せるから、楽しみにしといて!」
「ああ、私もとても楽しみだ。さて、恋鐘は何がご所望かな?」
「あ、そやった、飲み物頼まんと。んーと、そいじゃダージリンのミルクティー!」
恋鐘が来ると空気の温度が変わる。やっぱり、春みたいだな、と霧子は思う。アンティーカの船旅を、明るく、温かくしてくれる船長さん。
「そいで、二人は何か話をしとったん?」
「ああ、それは……」
咲耶は霧子をちらと見たが、霧子が小さく頷くと、咲耶は先ほどの話を簡単に恋鐘に説明した。
「霧子の言葉?」
「うん、恋鐘ちゃんは……どう、思う?」
「う~ん、そげんこと言われても~」
恋鐘は頭を抱える。
「あの、恋鐘ちゃん、無理はしなくても……」
「う~ん……」
今度は腕を組んで呻り始める恋鐘に、霧子は申し訳ない気持ちになってくる。
「恋鐘、ごめん、そこまで悩んでしまうとは……」
咲耶も気遣わしげに恋鐘に声をかけたが、それでも恋鐘はしばらく悩んだ末に、腕を解いて天を仰いだ。
「う~ん、やっぱりわからん! ごめん、霧子~」
「ううん、こっちこそ、ごめんね……」
「うちにわかるのは、うちが霧子の言葉が大好きで、話しとって幸せな気持ちになるってことだけたい。でも、みんなそう思ってるんと違う?」
弱り切った顔でそう言った恋鐘に、霧子も咲耶も虚を突かれたような顔になり、何も言えなくなる。
「ん? どげんしたと? そんなに目をまん丸くして」
「……いや、そうだね、その通りだよ、恋鐘」
少し吹き出すのを堪えるような声で咲耶は言って、霧子の方を見る。
霧子はしばらく驚いた顔のまま固まっていたが、恋鐘が不思議そうな表情をしているのを見て、ふっと肩の力が抜けた。
「ふふ……ありがとう、恋鐘ちゃん」
「ん~? なんかよくわからんけど、霧子がいいならそれでよか!」
恋鐘ちゃんは本当に春みたいだ、と霧子はもう一度思う。不思議は、不思議のままでも良いのかもしれない。きっと、この温かさに理由をつけてしまわないほうがいい。
ちょうど店員がミルクティーを持ってきて、あとはいつも通りの賑やかなお茶会が続いていくと思われたが、そこで、三人のスマートフォンから同時に着信音が鳴った。
そして届いたメッセージを確認した霧子と咲耶は、ほぼ同時に恋鐘に話しかけていた。
「こ、恋鐘ちゃん………!」
「恋鐘……!」
スマートフォンの画面を見てじっと固まっていた恋鐘が、歓声を上げるまで、そう時間はかからなかった。
メッセージはプロデューサーからで、長崎でのロケが決まったことが書かれていた。