nein nein - 5/5

二〇一七年三月

 三日間に及ぶ満員御礼の武道館ライブが終わって翌週の休日。まだ春は遠いものの、日差しに暖かさを感じるようになって、桃子はシアターへとゆっくり歩いて向かっていた。シアター周囲の街路樹には春に咲く花の蕾が季節の到来を待ち望んでいるようだった。
 ライブ終了後、仕事は増え続ける一方で、いい加減に人を新しく雇ったほうがいいのではないかという話も出ているらしい。特にMILLIONSTARSからの卒業を発表したまつりに対しては、早い者勝ちとばかりにドラマや映画、舞台への出演がひっきりなしに舞いこんでいて、専属のスタッフが必要なのではないかと思われるほどだった。
 そんな世間の盛り上がりに反して、シアターはひっそりとしていた。しばらくライブの予定はなく、年度中は春休みとしたためだ。
 桃子はシアターの中に入る。エントランスロビーに敷かれた赤絨毯のちょうど中央に、佇んでいる人影を見つける。つば広の帽子を抱えて、真っ白なワンピースとハイヒールの出で立ちのまつりは、桃子に向かって笑いかける。
「桃子ちゃん、こんにちは、なのです」
「まつりさん。来てくれて、ありがとう」
 まつりをここに呼んだのは桃子だった。
「桃子ちゃんにデートに誘われるなんて、まつり感激なのです!」
「もう、からかわないで。でも、ある意味、デート以上かも」
「ほ?」
 桃子は一度深呼吸してから、まつりに一歩ずつ近づいていく。舞台のワンシーンのように。
「今日まつりさんを呼んだのは、伝えたいことがあったから。まつりさんが、手が届かないところに行っちゃう前に。聞いてもらえる?」
「もちろんなのです」
 5メートル。桃子は準備してきた言葉を確かめるようにゆっくりと話し始める。
「最初、まつりさんのことは、ずっと苦手だった。ううん、正直に言って、嫌いだったかも。私の知っているお芝居、演技を、なんだか馬鹿にされているような気がしていたから」
 4メートル。まつりは微笑みながら黙って桃子の言葉を聴いている。
「でも、ステージを観て、まつりさんがうわべだけでお姫様をやってるわけじゃないってことがわかった。本気なんだって。絶対に、あんなステージは私にはできないって思っちゃった。今だったらわかる、あのとき、私はまつりさんに惹かれちゃったんだ」
 3メートル。桃子の声が震えそうになる。観客も居ないしカメラも無いが、これまで演じたどんな役の台詞を言うときよりも緊張している。
「それからあっという間に、まつりさんはどんどん活躍していった。シアターの誰よりも早く。私、悔しかった。早く大人になりたいって思うようになった。まつりさんぐらいの年齢になれば、私ももっとできるはずだって」
 2メートル。それ以上に、高揚がある。
「でも、それも違ってた。私は時間を言い訳にしてた。私は怖かったんだ。いつか、まつりさんみたいに、与えられた肩書きじゃなくて、私が私として、続けることを選ばなきゃいけないときが来るんだって。そして、そうなった時に、私はちゃんと選べるのか、まつりさんと胸を張って向き合えるのかって。それにようやく気づいたのは、まつりさんが卒業するって聞いたとき」
 1メートル。桃子はまつりを、挑むように見上げる。
「だから、もう怖がるのはやめる。まつりさんには、ここで宣言するね。私は、周防桃子として、ステージの上に、カメラの前に、これから先もずっと立ち続ける」
 そして桃子は最後の一歩を踏み出し、まつりに右手を差し出す。その手をまつりが右手で握る。0メートル。
「絶対に、負けないんだから」
「……わんだほー、なのです」
 お互いに目を合わせたま、10秒ほど握手は続き、そして手が離れる。50センチメートル。
「だから、これからもよろしくね、まつりさん」
「まつり、楽しみなことが増えたのです。とっても嬉しいのです」
 まつりはそう言って、桃子の横を通り、劇場の出口へと進む。そのすれ違いの刹那。
「これでもう、桃子ちゃんは一生退屈しないね」
 その言葉に何か返すことは出来ず、桃子は振り返ってまつりが劇場の外に出ていくのを見送った。まつりが開けた劇場の扉からは、風が強く吹き込んで、春の訪れを告げていた。

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