nein nein - 4/5

二〇十七年一月

 年が明けて、キンと冷えた空気を押し返すように、シアターはより一層の熱を帯びていた。レッスンルームは全室が毎日遅くまで満室で、音楽と歌声とレッスンシューズが床を鳴らす音が絶えず響いていた。
 日本武道館でのライブ開催が発表されたのは昨年行った全国ツアーライブの千秋楽だった。発表時のファンの歓声とメンバーの涙。その日以来、シアターの空気がはっきりと変わったことを桃子は覚えている。最初の曲、『Thank You!』からずっと歌われてきた場所であり、そこでのライブが実現されるということは、始まりが過去のものになるということだ。節目となることは明白だった。
 例年、年末年始の冬休み期間には、メンバーが入れ替わり立ち替わりで一年の振り返りと次年の抱負について話す配信がほぼ毎日行われている。桃子は年末の配信で、昨年上映されたシアター組総出の任侠映画『果てしなく仁義ない戦い 魅梨音闘争篇』にてキャスティング投票の結果主演を務めることができたことへの感謝を述べ、他のメンバーと同様に、武道館ライブへ意気込みを語った。一緒に配信カメラの前に座っていたのは育で、桃子は育が相手だったこともあって気負わずに話すことが出来た。ファンのコメントは常時画面横に流れ、桃子も育もそれを見て適宜レスポンスを返しながら配信を進める。
「――じゃあ、しばらく桃子……じゃなくて、私が話して良い? ちょっと育、笑わないでよ! あーあ、まだたまに出ちゃうなー……もう台無し。まあいいけど。あのね、これを言うのちょっと恥ずかしいんだけど、私、武道館ライブが決まったときにね、アイドルやってきて良かったなって心から思えたの。私、昔は子役で映画に出ていたことがあって。あ、みんな知ってるんだ、えっ昔の出演作品見てくれた人もいるの!? えーなんか恥ずかしいな……。すごく良かった? ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいな。だから、去年に映画の役者としてのお仕事を、何よりファンのみんなに選んでもらえたの、本当に、本当に嬉しかった。それでもね、今の私はやっぱりアイドルだから。お芝居もアイドルのお仕事のひとつだけど、何よりも今は良いライブをしたい。シアターのみんなとだったら絶対に出来る。役者のお仕事とアイドルのお仕事って、もちろんいろいろ違うところがあるんだけど、私にとって一番の違いは、ファンのみんながライブ中ずっと笑顔でいてくれるところ。応援してくれる声を直接聞くことができるところ。最初はびっくりしちゃったけど、いつの間にか大好きになってた。だから、私は私の大好きなステージを、最高のものにしたい、ううん、絶対にそうしてみせる。だから、みんな、武道館まで絶対に応援に来てね!――」
 タブレットから流れる自分の配信のアーカイブを、桃子は練習後の控室で見ていた。すっかりアイドルらしくなっちゃったなあと思う。
 桃子が役者であるときはこうやって役ではない自分の姿を見てもらう機会なんてほとんど無かった。少なくとも、桃子自身が主体となって、 自分の言葉を語ることは求められてはいなかった。アイドルと役者の一番大きな違いはそこかもしれないと、配信で語った自分の言葉を桃子は上書きする。
 動画を見ながら、桃子は小声で歌を口ずさんでいる。武道館公演で披露すべく与えられた歌だ。桔梗の花をモチーフに、遠く離れてもお互いに想い合う二人を描いた歌詞を、情緒的でドラマチックなメロディが運び、物語がそこに立ち上がってくる。一緒に歌うのは風花とこのみで、プロデューサーから渡された仮歌を一緒に聴いたとき、とくに風花は感極まってしばらく言葉が出なかったほどだった。プロデューサーに向かって深く頭を下げた風花の様子に、大げさね、と茶化すように言ったこのみも声が涙ぐんでいたし、桃子はそれを見てこの曲をこの大人の二人と一緒に歌うことを誇らしく思った。
「桃子ちゃん」
 不意に背後から語りかけられて桃子は肩を大きく揺らしてしまった。
「ほ? 驚かせてしまったのです? ごめんなさいなのです」
「まつりさん……」
 桃子は今に至っても、結局まつりに対してうまく距離を詰められないままだった。桃子がまつりに対して気まずい気持ちを抱えたまま、あっという間に桃子の手が届かないところまで行ってしまったからだ。
「もう、いきなり後ろから話しかけられたら誰だってびっくりするよ。それで、私に何の用?」
「用事、というほどのことはないのです。ただ、控え室に来たら桃子ちゃんがいたので、声を掛けただけなのです。こうして二人でお話するの、久しぶりなのです、ね?」
 ニコニコしながら話すまつりは初めて会ったときから全く変わらない印象を桃子に与える。それを今の桃子はおそろしくも思う。
「この前の桃子ちゃんの配信なのです? まつりも見たのです!」
「そうなんだ、ありがと。うまく話せてた? あんまり、こうやって話すのは慣れてなくて」
「もちろん、とってもわんだほー! だったのですよ! 桃子ちゃんがアイドルのことを大好きだってことが伝わってきたのです。桃子ちゃんが、今の桃子ちゃん自身のことをちゃんと好きだってことが」
「あ、ありがとう。そこまで褒められると、ちょっと照れちゃうな」
「本当に、良かったのです」
「……まつりさん?」
 まつりの声のトーンが落ちていくのに気づいた桃子は、訝しげにまつりを見上げようとしたが、まつりの顔が急に近づいてきて身動きが取れなくなる。桃子と同じレッスン着の出で立ちだが、まつりからはふわっと甘い匂いが香っていて、桃子の鼻をくすぐった。
「え、ちょっと、何?」
「桃子ちゃん、まつりの配信は明日なのです。桃子ちゃんには、ぜひ観てほしいのです。ね?」
耳元で囁くように言われたから、まつりの表情は桃子には見えなかった。そして次の瞬間にはぱっと身を引いたまつりは悪戯っぽく笑っていた。
「絶対、なのですよ?」
 それだけ言ってくるっと背を向けて、まつりは控室を去った。
 そして釈然としないものを抱えたまま翌日の夜を迎えた桃子は、配信を観てすぐにプロデューサーへ連絡をとった。
 配信画面の中では、まつりが日本武道館ライブをもって、MILLIONSTARSにおけるアイドル活動を卒業することを表明していた。

◇◇◇

「本当に、びっくりしたよね」
「うん……」
 桃子は育と共に劇場からの帰途についていた。最近は帰宅時間ギリギリまで残っていたから、日が高い中の帰り道は新鮮だった。
 今日はシアターで、先日の発表について、プロデューサー、及びまつりからの説明があった。
まつり個人の活動拡大にあたり、MILLIONSTARSという枠組みでの活動は厳しくなってきたこと、当人も悩んだが相談の結果こういう形になったことが、主にプロデューサーの口から語られた。近年のまつりの活躍を見るに、その理由は誰もが納得できるものだったし、日本武道館ライブというタイミングについても、相応しいものではあった。
「――まつりはこの劇場のことが、みんなのことが大好きなのです。この4年間、本当に、まるで夢みたいに楽しかったのです。まつりがいなくなっても、きっとみんなならとっても素敵な時間をこれからもずっと作っていけると思うのです。……今まで、本当にありがとう」
 まつりはそう挨拶を終えると、聴衆に向かって深くお辞儀をした。
「でも、まつりさん、765プロは辞めないから、これからも会えるんだよね。良かったー」
「うん、そうだね」
 駅に降りる階段の前まで来たところで、育はピタリと足を止めた。
「ねえ、桃子ちゃん。今日はゆりかもめ乗っていこう?」
「え、あ、うん。別にいいけど」
「うん、それじゃ決まり! 寄り道もしちゃお!」
 育は桃子の手を引き、Uターンして右手前の高架にある駅に伸びる階段へ向かって歩き出す。。もちろん育も桃子も何度となく乗ってはいるのだが、それでも海と公園と高層ビルが並ぶ景色を列車から眺めるのはまだ特別なものがある。
 台場駅で降りて近くのショッピングモールに入る。様々なショップが並ぶ建物内を育と桃子は巡っていく。アパレルショップでバッグや服を手に取っては値札を見て肩を落とし、メガネショップではお互いに眼鏡をかけあって写真を撮り合い、キャラクターショップからなかなか動かない育を桃子が引っ張り、ミューズメントエリアでプリクラを撮り、最後には建物内の喫茶店に腰を落ち着けた。
「あー楽しかった!」
 チョコレートパフェを目の前に置いた育は達成感に満ちた笑顔。
「育、ちょっとはしゃぎ過ぎだよ。桃子疲れちゃった……」
一方、桃子は少し呆れた顔をしながらパンケーキにナイフで切り込みを入れている。この1時間半、ずっと育のペースに桃子は引っ張られていた。
「だって、すごく久しぶりだったんだもん、二人でこうやって遊ぶの」
「それは、たしかにそうかもね」
 シアターに入って、桃子が一番最初に仲良くなったのは育で、特に一年目は育の方から積極的に桃子を遊びに誘った。二人とも小学生だったから今ほど自由には動けなかったけれど、レッスンの合間に買い物に行ったり、公園で遊んだりするのは日常だった。その頃桃子のお気に入りだったシールコレクションも育だけには見せることが出来たし、育も気に入ってくれた。それからコレクションの中には育と取ったプリクラも次第に増えていき、シール帳は育とのアルバムにもなって、今も桃子の部屋の机の引き出しに大事にしまってある。
「ねえ、育」
 育がこうやって話す時間を作ってくれたことはわかっていて、桃子はそれに甘えることにした。
「育はこの先、ずっとこのままアイドル続けていくのかとか、考えたことある?」
「んー、ときどきあるよ」
 パフェをつつきながら育は答える。
「でもいつも、今、全然やめる気が無いのにそんなこと考えてもしょうがないよね、って結論になっちゃう」
 桃子の目から見ても、育はアイドル活動を本当に純粋に楽しんでいた。その屈託の無さは昔の桃子にとっては危うさに映ったが、反面、羨ましくもあったんだな、と今の桃子ならそう振り返ることができる。そして今はそんな育に救われてるな、とも桃子は思う。
「桃子ちゃんは、やめるとか考えたことあるの?」
「それは……」
 まつりの卒業発表を受けて桃子は、自分に「やめる」という選択肢が今まで無かったことに気付かされていた。物心ついたときには桃子はもう女優で、だから女優をやめなければいけない時にはアイドルになるしかなかった。そして今はアイドルをやっていること、765プロでMILLIONSTARSとしていることに安心を感じている。
「私ね、今までやめたいと思ったことなんて一度もないの。私の居場所は昔からカメラの前だったし、ステージの上だったから。それが当たり前だったから」
 桃子は気持ちを整理しながら少しづつ言葉を紡いでいく。
「だからね、もしMILLIONSTARSが無くなっても、私はずっと続けていくと思う。それがアイドルなのかどうかはわからないけど、きっと私にはそうするしかなくて」
 桃子は話しながら、自分の話す言葉で、自分が作られていくように感じた。役が台詞によって作られていくように。
「でも、そうなったときに、私は、まつりさんに追いつけるのかなって。ずっと、追いつけないと思いながら、続けていくしかないのかなって。今回、まつりさんがやめるって言って、また手が届かないところに行っちゃうような気がして、そう思っちゃって」
 育からハンカチが差し出されて、桃子は自分が泣いていることに気づき驚いた。急いで目元を拭う。
「ごめん、こんなふうになっちゃうなんて思ってなくて。ハンカチありがとう」
「ううん、全然大丈夫。でも、そっかあ、桃子ちゃんそんな風に思ってたんだね。ちょっと意外かも」
 育は少し形の崩れてきたパフェを口に入れてから続ける。
「……強がりだって言いたいんでしょ。わかってる」
 自分ですらはっきりとわかっていなかった自分の気持を吐き出して、桃子はもう何も反論すまいと諦観していた。すっかり冷えたパンケーキを口に運ぶ。
「いや、そうじゃなくて」
 え、と目を丸くして育のほうを見た桃子の顔に、育は柄の長いスプーンを向けて言った。
「桃子ちゃんがまつりさんのこと、そんなに好きだったってこと」
 桃子はむせ込んだ。
「は? えっ、ちょっと待ってそんな話全然――」
「あーもうほらお水飲んで。落ち着いて」
 これは想像以上だなーと呟きながら育はコップを桃子に渡す。一息に飲み干してから桃子は顔を赤くして育を睨む。
「なんでそうなるの!」
「だって、誰かのことを思って泣いちゃうなんて、その人のこと好きだからなんじゃないのかな」
育はさも当然そうに言う。
「好き、って言葉がちょっと違ったとしても、少なくとも桃子ちゃんの中でまつりさんがとても大きい存在だってことは間違いないでしょ。桃子ちゃんがそういうふうに思える人がいるんだってことが意外だったの」
「そんなのじゃ……」
「そこで素直じゃないのやっぱり桃子ちゃんだよね」
「だから違うって! むしろ苦手だし! 最初はずっと演技してるなんて変だって思ってたし、それでいてステージが凄く格好いいのずるいって思ったし、まつりさんの仕事がどんどん増えていくの悔しかったし、こっちがいくら頑張ってもすぐにその先に行っちゃうし、それでいてずっとそれが当然みたいに余裕そうだし、私に対して見透かしたような態度とるし……」
 育の表情がどんどん呆れたものになっていくのに気づき、桃子は語るに落ちたということに気づいた。
「もう、育のバカ」
「よろしい。あーあ、でもなんか妬けちゃうな。桃子ちゃんからそんなに強く想われてるなんて」
「お願い、もうやめて……」
 桃子はしばらく頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。
 会計を済ませて、ショッピングセンターの外に出ると、そろそろ陽が落ちかけていて、二人は冷たい潮風に追い立てられるように駅に向かってゆりかもめに乗った。座席に二人向かい合って座ると、窓からは夕焼けに染まる海が見えた。
「育」
「ん、なあに」
「今日は、ありがと。話せて、良かった」
 今日を逃せばもう二度と捕まえることのできない気持ちだったかもしれず、桃子は育がいてくれて本当に良かったと思う。
「私も。話してくれてありがと」
 そして二人はなんとなく照れくさくなって何も言えなくなり、少しくすぐったい沈黙を、列車が静かに運んでいく。
 別に、好きとかじゃないけど、と桃子は自分の中で前置きをして、一度ちゃんと話そうと決意する。この気持ちを伝えたい相手は、もう一人いる。

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