nein nein - 3/5

二〇一五年四月

 765プロライブシアターでアイドルとしてデビューして3年目、2周年のライブを終えて、桃子は中学生になっていた。学生服姿でシアターに現れる年上のメンバーのことを少し羨ましく思っていた桃子は、自分が制服を着ることができるようになって素直に嬉しかった。服装で自分の成長が実感できるのは学生の特権で、初めての制服なら尚更だ。
「桃子、制服似合ってるじゃん!」
 入学式が終わった後、家に帰って着替える時間はあったものの、何となくもったいなく思ってそのままの格好でシアターに来ると、たまたまロビーに居たのり子が声をかけてくる。
「ありがと。まあ、桃子に着こなせない服なんてないけどね」
「やっぱり中学生になっても桃子は桃子かー」
「何、その言い方!」
 ごめんごめん、と全く悪く思っていないような声で手をひらひらさせて答えるのり子に、まったく、と口では文句を言いつつも、そんなふうに声をかけてくれたこと、それが当たり前になったことが桃子にとっては大きな変化で、こんなに居心地が良くなるなんて、と一年前は想像もしていなかった状況に、服装だけじゃないよね、と自分が過ごした時間を噛みしめる。
 レッスンウェアに着替えるためにロッカールームを開けると、先客が居た。
「あ、瑞希さん」
「周防さん、こんにちは。そうか、今日から中学生……私も大学生になりましたし、お互い、新入生同士ですね」
 MILLIONSTARSは昨年のプラチナスターライブ企画によるユニット結成が功を奏し、いよいよ軌道に乗り始めた。今年度は後半に全国を巡るツアーライブが予定されており、新しい試みとして、デュエットでの新曲を披露することが決まっている。時期はまだ先だが、既に誰と誰がペアになるのか、そして新曲も内々では発表されており、桃子の相手は瑞希だった。
「周防さん、ご入学、おめでとうございます。中学校、懐かしいな」
「瑞希さんも。これからもよろしくね。そっか、瑞希さんはもう制服じゃないんだ」
「はい、少し、寂しいですね」
 襟付きの白いブラウスにクリーム色のカーディガンをはおい、ネイビー色のスキニージーンズを履いた瑞希は桃子から見て、制服の時よりもぐっと大人びて見えた。今日初めて着た制服もいつかは脱がなければならず、桃子にとってそれは遥か先のことのように思えたが、つい先日まで制服こそがトレードマークであった瑞希がそうなっているのを目の当たりにすると、そのときを意識してしまって少し空恐ろしい気持ちになる。
 お互いにお揃いのレッスンウェアに着替え終わり、レッスンルームに入るとそんな感慨もすぐに消え去って、シアターとしての日常は何も変わっていないことに物足りなく思いつつも、どちらかといえば安心のほうが大きい。アイドルとしての桃子の時間は桃子自身が進めている実感があるからだ。
シアターに複数あるレッスンルームは予約制で、もちろんプロデューサーが決めるスケジュールが最優先されるが、空いている時間があれば誰でも自由に部屋を取ることができる。桃子と瑞希は新曲のため、今日の昼間の2時間を確保していた。
「とりあえず、合わせてみましょうか」
 軽くストレッチをして身体を慣らした後、瑞希はステレオの電源を入れる。軽快なブラスのイントロが流れる始めると、二人の身体が自然と動き始める。
桃子は「Chu-chu-ru-Chu……」と歌詞を口ずさみつつ、隣りの瑞希の動きに合わせて動く。瑞希のダンスはしなやかで、すらっと伸びた手足が端正に動く様は、今回の曲に充てがわれたダンスに良く映える。
 桃子のダンスは瑞希よりもだいぶ柔らかく、緩急があり、感情的だ。役者がキャリアの出発点である桃子にとってはアイドルとして歌って踊るステージもやはり演技の延長として捉える方がしっくりくる。
 ポップな曲調とは対照的に、この曲の歌詞は決定的な別れがあったことを示していて、桃子はごく当たり前に、その歌詞から感情を読み取ろうとする。cut.cut.cut.。決別のために髪を切る。桃子は想像する。美容室で鏡台に向かう自分を想像する。起こってしまったこと、もう取り戻すことができないことを想像する。それでも、なんとか前を向こうとすることを想像する。そして、桃子はまだ想像しかできないことも自覚する。
 きっとこの曲でイメージされているモデルは桃子よりもずっと年上で、ちょうど瑞希ぐらいの年齢が相応しいのだろうかと桃子は思う。いずれわかるときが来るのかもしれないが、その「いずれ」が桃子には果てしなく遠い。
 練習を終え、桃子は瑞希と自販機のある休憩スペースに来ていた。飲み物は瑞希が桃子の分も買ってくれて、それに素直に甘えることができるぐらいには桃子も子供ではなくなっていた。
「お疲れ様です、周防さん」
「瑞希さんもお疲れ様。結構合ってたんじゃないかなと思うんだけど、どう?」
「ええ、流石、周防さんですね。表現力が凄いです。私も、見習わないと」
 瑞希はあまり口数が多い方ではないが、丁寧さを決して欠かさない態度と、誰に対しても決して敬意を欠かさない言葉の選び方をするため、桃子も信頼を置いている。
 休憩所には壁いっぱいにポスターが貼ってあって、765プロ主催のイベントの他に、各メンバーが個人で出演するイベント・番組・舞台・映画などのポスターがひしめき合っている。桃子は壁に一番近い背もたれのないソファに座ってポスターを眺めながら喉を潤す。
 3年目になると、シアターも組織としてのあり方がはっきりとしてきていた。
 高校生までのメンバーは学業と両立しながらの活動となるため、基本的には765プロ主体のイベント中心で活動している。ジュリアだけは例外で、アイドル兼シンガーソングライターとしての活動を本格的に開始し、直近では単独でロックフェスへの参加を決めていた。これについては、如月千早という音楽界において成功を収めた前例があったこと、および、千早とジュリアがメンバーとなっていたユニット、「エターナルハーモニー」においてジュリアがその筋のメディアの目に留まったことも大きい。
 一方で高校を卒業したメンバーについては、個々人の活動の幅はぐっと広くなる。各々の仕事に対して、付き添い等のプロデューサーのフォローがあまり必要にならなくなるからで、信頼できる現場の場合は、プロデューサーが事前に段取りだけを決めておき、当日現場に向かうのはアイドルのみという場合も往々にしてある。そのような裁量の大きさは成人になるまで徐々に大きくなっていき、それは支払われる給与にも反映されていて、要するに、「大人」として仕事を任されるようになるということだ。高校を卒業したばかりのメンバーは環境が大きく変わる事に不安を覚える者も多く、この時期のシアターではこのみや莉緒が都度アドバイスを行う姿がよく見られていた。
 成人のメンバーについては各人の個性や適性に応じた仕事が自然と増えており、彼女たち個人の業界内での立ち位置が固まりつつある。例えば、このみと莉緒はバラエティへの出演が多く、シアターの顔役となっていたし、風花や千鶴はドラマの出演依頼が増えてきている。
 だから、壁に並んだポスターはやはり成人メンバー出演のものが割合として多くなっているのだが、その中でも異彩を放っているのはやはり徳川まつりだった。まず、ポスターの数が圧倒的に多い。半年後までに出演するドラマ、演劇の数は二桁にのぼり、最近ではまつりを劇場でみかけることが稀になっていた。しかしながら、本業のアイドル活動についても、まつりは一切手を抜いていないどころか、シアターの誰も真似ができないぐらいに精力的だった。
 シアター稼働一年目の定期公演の時点で、企画から演出まで主体的におこなっていたまつりだが、2年目からはセルフプロデュースをさらに加速させていた。まつり個人のファンクラブを設立し、会員限定のライブイベントを定期的に実施。シャンデリア煌めく西洋の城のエントランスに招待されたかと思えば、灯籠が灯る武家屋敷の軒先に迷い込んだりして、そのステージ演出のコンセプトはあらゆる文化を横断し、それが全て徳川まつりのパフォーマンスのために昇華された。
 定期公演で披露された『THE IDOLM@STER』は都度アレンジを変えつつ必ず披露され、拳銃の刻印が入ったマシュマロが観客に手渡されるのも恒例となっていた。ファングッズのデザインもまつり自ら手がけ、必ずデザインにはマシュマロと拳銃のモチーフが描かれていた。まるでマシュマロが弾丸のようだ、とは誰しもが思うところで、いつしか「マシュマロの弾丸」はまつりのファンの中で通じる隠語のようになっていた。
 そのようなまつりの活躍を桃子は遠くから眺めていた。眺めるしかなかった。
 まつり自身がまるで弾丸のように、猛スピードで進んでいくのに、誰だってついていけなかったが、桃子もその中の一人であることを、やはり悔しく思っていた。何より、まつりに与えられた自由に対して。
「周防さん、どうしましたか? 眉間に、シワが寄ってます」
 桃子は瑞希に声を掛けられてハッと我に帰った。顔を横に向けると、いつのまにか瑞希が隣に座っていて、心配そうな表情で桃子を見ていた。
「ううん、なんでもないよ。ちょっとぼーっとしちゃったみたい」
声に動揺は見せていなかったはずだが、瑞希の視線は先程まで桃子がみつめていたポスターへ移動していた。
「徳川さんのポスターを見ていたんですね」
 沈黙は答えだった。
 瑞希はポスターへの目線は変えずに続けた。そういえば、と。
「徳川さんがシアターに入ったのは、ちょうど今の私の年齢のときです。追いつくのはまだ先だと思っていたのですが、あっという間でした」
 瑞希は訥々と語る。
「私が今から、徳川さんと同じ時間を過ごして、同じようなことが出来るとは、思えません。あまり、やろうとも思いません。そういうことが、同じ年齢になると、わかってしまうのかもしれません。」
 桃子はじっと聞いている。こういうときの瑞希の言葉は聞き逃してはいけない気がしてしまう。
 瑞希の声の感情は読めない。ただそうであることをありのままに述べているだけのように聞こえる。
「それは悪いことではないと思います。私達はそれぞれが違っていて、それでいい。でも、それでいいと、本当に思えることは、やはり難しいですね」
「瑞希さんは、思ってないの?」
 桃子はつい口を挟んでしまった。
「私だって、やっぱり悔しさはありますから」
 桃子は少し驚いた顔をして、ポスターから目線を戻した瑞希の表情と目が合う。その表情は少し微笑んでいるように見えた。

◇◇◇

 夕食はホットケーキだった。ベリーやバナナなどのフルーツが周囲に散りばめられ、ケーキ中央にはたっぷりのホイップクリームと共に「入学おめでとう」と書かれたチョコレートプレートが乗せられている。ホットケーキは手作りだから、チョコレートプレートは母親が買ったもので、少し不恰好な文字も母親の手のものだということがわかり、桃子はそれを見てこそばゆい気持ちになる。
「お母さん、ありがとう!」
「どういたしまして。喜んでくれて良かったわ」
 そして、桃子にとってそれ以上に嬉しかったことは、もう一人がこの食卓に同席していたことだった。
「桃子、おめでとう。本当に、大きくなったな」
「……うん、ありがと、お父さん」
 父親が帰ってきたのは3月で、出張が落ち着いてしばらくは内勤となるとのことだった。それは単に仕事の都合でたまたまそうなっただけかもしれないが、桃子は自分のアイドル活動が認められたからだと思っていた。昨年、リコッタのライブを終えた後の集合写真を送ったとき、出張に出てから初めて父親から電話が掛かってきて、桃子は動悸を抑えきれないまま通話ボタンを押した。
 父親からは、今まであまり話せなくて本当に申し訳なかったということ、桃子の活動はずっとチェックしていること、そしてアイドル活動を桃子が本当にやりがいを持ってやっていることがわかって安心したということを伝えられ、桃子は涙が出てくるぐらいに嬉しかった。桃子はそのときようやく、あの日、頷いた自分の選択が間違っていなかったんだと思えた。
「でも、桃子まだまだ子供だもん、早く大人になりたい」
 だから、父親の言葉に応じてつい強気な口調になったのは、照れ隠しのつもりだった。素直じゃないな、と桃子は自分で呆れる。きっと父親もちょっと困ったように笑ってくれるだろうと桃子が目をやると、そこには父親の驚いた表情があった。
「ど、どうしたの? 桃子、何か変なこと言った?」
 予想外の反応に桃子は焦る。そんなにショックだったのだろうか。
「いや、いや、そうじゃないんだ。ごめんな。ただ、桃子が早く大人になりたい、なんて言うと思っていなかったから」
 桃子はそれを聞いて首を傾げた。
「それってどういうこと?」
「だって、桃子はよく、「子供扱いしないで」って言ってただろう?「もう一人前に仕事をしてる、大人なんだから」って。そのことが、ずっと心配だったんだ。お母さんとも、そのことで何度も話をした。」
 母親は父親の言葉に頷いていて、瞳が少し潤んでいるように見えた。
「桃子が大人になりたいって思えるところにいるんだったら、きっといまの事務所は良い場所なんだと思う。本当に、良かった」
 桃子はなんと答えたら良いかわからなかった。自分がかつてそうだったこと、今はそうではないということを、桃子自身は言われてもうまく受け入れられなかった。
 それでも、今の桃子を認めてくれる言葉が嬉しくないわけがなく、桃子も雰囲気につられて泣きそうだった。
「うん、私、今の事務所好きだよ。事務所にいるみんなが好き。アイドルのお仕事も好き。だから、心配しないで」
 食卓に父親と母親と自分がいて、桃子を祝うホットケーキが目の前にある。桃子が最初に辿りつこうとしていた場所はここだったかもしれない。今の桃子にとって、その場所はもっと先にあった。

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