二〇一四年三月
三月の定期公演を終え、着替え終わった桃子は、控え室の椅子に座ってステージの余韻に浸っていた。765プロライブシアターの控え室は、適切に調整された空調による柔らかな暖かさが満ちている。ついさっきまで桃子達が立っていた舞台での熱気とは対照的で、「控え室で野球はしてはいけません!」の張り紙が弛緩した空気を助長させていた。便宜的に控え室と呼んでいるが、冷蔵庫も備え付けてあり、日常的にはラウンジとして使用されているのが実情である。
周りでは公演のメンバーだった千鶴、ロコ、そして雪歩が同じように私服に着替えて思い思いに過ごしている。ロコと千鶴はステージ上で交わしていた漫才の延長戦をしていたが、それも千鶴がバッグから取り出したコロッケを、ロコが悔しそうな声を上げながら美味しそうな笑顔でほおばったところで休戦となった模様。それに気づいた雪歩はお茶を淹れてテーブルへと並べる。茶葉は常備してある雪歩持参のものだ。
「はい、桃子ちゃんも、どうかな?」
「……ありがと。でも、雪歩さん、本当に大丈夫? 今日は帰ったほうが良いんじゃないですか?」
今日の公演で雪歩の体調は芳しくなく、雪歩のソロの出番の前、発熱していることに気付いたのは桃子だった。桃子の制止にも関わらず、ステージに出て歌い切った雪歩と、その雪歩の背中を押した千鶴、そして結果としてそのパフォーマンスに胸を打たれてしまった桃子自身がいて、桃子の内には何よりも先に申し訳なさがある。だからせめて、気遣いだけは最後まできちんと通したいと思っていた。
「ありがとう、桃子ちゃん。心配かけて、ごめんね。でも、今は本当に平気なの。ライブで汗かいたからかな?」
えへへ、と眉を下げて笑う雪歩を見て、改めて、可愛くて、強い人だと桃子は思う。普段は自信の無い様子が目立っていても、それは無茶だと思うところでそれを押し通してしてしまう。
「それはきっと、ライブの後で気分が高揚しているからですわ。雪歩、桃子の言う通り、今日はお帰りなさいな」
でも、無茶を無理だと指摘するのはこの場の年長者である千鶴の役目で、こういう時の発言力は765プロの誰しもが一目を置くところ。雪歩も、はい、と少し小さくなりながら返事をして、桃子もホッと一息ついた。
アイドル活動を始めてからそろそろ一年が経とうとしていた。桃子は桃子の予想通りに芸能界の先輩として他のメンバーから一目置かれていたし、演技については誰にも負けている気がしなかったが、桃子よりも歌が上手い人も、ダンスが上手い人もいた。そして何より、アイドルとしてステージに立つということについては、自分は経験者でもなんでもない、「新人アイドル」に他ならないということがわかってきてきていた。
決して、桃子はそういう面を表にはだそうとしなかったが、内心徐々に焦りが生まれてきていたことは事実で、だからこそ、無暗にメンバーと慣れあわず、プロとしてのストイックさを自分に課してきていた。その意識こそが桃子の一番の拠り所だった。
雪歩の無茶を止めたのも、もちろん雪歩が心配だったからだが、桃子自身が思う「プロとしてあるべき行動」にそぐわなかったということが動機としてあったことを思うと、間違ったことは言っていなかったとは思うものの、後ろめたさが無いといえば嘘になる。だから、千鶴が雪歩を諭してくれて桃子も少し救われた気持ちになっていた。
そこで勢いよく入り口の扉が開いた。
「雪歩、大丈夫!?」
「真ちゃん、そんなに大きな声を出したら雪歩ちゃんがびっくりしちゃうのですよ?」
「ご、ごめん」と声のボリュームを落としながらも雪歩の元へと駆け寄るのは雪歩の同期である真で、その後ろからゆっくり歩いて現れたのはまつりだった。
「ま、真ちゃん!?」
「熱を出してるって聞いて心配だったから。ほら、雪歩って辛くても我慢しちゃうところあるだろ?」
「うう、ごめんなさい……」
突然現れた王子様の言葉の効果は絶大で、言葉をかけられたお姫様は強気の魔法が完全に解けてしまった。心なしか、頬がまた赤くなってきているようだった。
「でも、雪歩ちゃんのステージ、とってもわんだほー! だったのですよ。えらいのです!」
この場のもう一人のお姫様であるところのまつりはニコニコと雪歩に労いの言葉をかけると、桃子のほうに歩いてきた。気付いた桃子は思わず身構える。
「桃子ちゃんも、ステージとっても楽しそうだったのです。かわいくて、キラキラしていたのです」
「……そんなの、桃子はプロなんだから、当たり前です」
「ほ、さすがは桃子ちゃんなのです!」
ニコニコと屈託ない笑顔で話すまつりに、俯き、目を逸らしながら応じる桃子が感じているのは、気まずさよりも悔しさだ。桃子がまつりを苦手に思っていることは相変わらずだったが、その種類は二ヶ月前のまつりが参加した一月公演をきっかけに大きく変わっていた。
一月公演はまつり、海美、美也、貴音の四人が出演者だったが、企画はまつりがほぼ一人で行っており、ホールではなく建物内のイベントスペースを会場とし、床には深紅の絨毯、壁には垂れ幕、天井には等間隔に並んだシャンデリアとさながら西洋のお城のパーティ会場だった。定期公演は公演メンバーの意向を最大限に反映する意向で、ユニットごとにコンセプトは大きく異なるが、その中でもまつりが用意した会場はそのディティールにおいて出色の出来栄えだった。
しかし、この公演を決定的に印象付けたのは、会場の出来栄え以上に、最後に披露された、本来予定されていなかったはずの演目である。
公演の主題曲である『瞳の中のシリウス』を歌い終わった後、会場はしばらく暗転したままだった。他の公演にも参加しているファンも多く、締めの挨拶が始まらないことにざわつきが徐々に大きくなってきた頃、サイケデリックなイントロが流れ始め、会場からは驚きの歓声が湧いた。『THE IDOLM@STER』。765プロダクション発足時、最初にリリースされたシングル曲。周年の大きなライブであればともかく、このような定期公演で歌われるような曲ではない。
そして、スポットライトがステージ中央を照らし、光の中心にはまつりがスタンドマイクを前に一人で立っていた。息を飲む観客。イントロが鳴り止む。静寂が会場を包む。俯きがちにマイクに近づき、まつりは口を開く。
「まつりの歌、聴いてくれますか?」
イントロが流れ出す。メロディは『THE IDOLM@STER』のものだが、アレンジが異なっている。電子音は鳴りを潜め、代わりにピアノが重厚にメロディラインを奏でている。歌い出したまつりの声はたしかにまつりの声だったが、そこにいつもの甘さは無く、むき出しの声で歌っていることが伝わってくる。その表情は何かを訴えかけるかのように真剣そのものだ。
ファンは微動だにできず、声も出せず、まつりをただ見ていた。戸惑っているファンも居ただろうが、その音に、声に、表情に、惹きつけられてしまったファンが圧倒的に多かった。
そして、曲の最後、ほとんど振り付けをしなかったまつりは、右手を拳銃の形にしてまっすぐ伸ばし、曲の終わりを告げる一音とともに腕を振り上げる。『THE IDOLM@STER』の最後を飾る印象的な振り付けだ。
曲が終わり、会場が明るくなる。曲が始まる前と同じく、静かだった。その場にいる全員がまつりに撃ち抜かれたようだった。腕を下げたまつりは一言「ありがとう、なのです」と言って一歩下がってお辞儀をし、舞台袖に下がる。魔法が解けたように会場からは大きな拍手と歓声が上がった。
その後四人揃って出てきたときにはまつりはすっかりいつもの様子で、海美が無邪気に「まつりちゃん、すごい!」と言っているのをふふん、と自慢げに受け止めるなどしており、和やかな雰囲気で公演は終演となった。
ただ、公演終了後、退場時に参加者にはマシュマロが渡され、そのマシュマロには拳銃の絵が焼き付けられており、それは明らかにまつりの最後のパフォーマンスに関連しているもので、SNS で共有され、公演後しばらくファンの間で話題となっていた。
桃子もその公演を見ていた。桃子は、そのパフォーマンスの凄み以上に、まつりと自分の違いをはっきりと感じてしまっていた。桃子には、あのようなステージは出来ない。能力の問題ではなく、桃子が考えている舞台でのパフォーマンスと、まつりのそれは明らかにかけ離れていた。
最初は勝手に期待して、裏切られたことに、後ろめたささえも感じていた。しかし、その公演で桃子は、この、目の前でにこにこと笑っている徳川まつりという人物を見誤っていたことに気づいた。プロフィールシートに書いてあった特技の「演技」が、桃子がそうしているように、求められた役をプロとして演じることを意味していないことは最初からわかっていたが、そこに込められた意味についてはきっと見かけでしか判断できていなかったのだ。
ぽん、と頭になにかが載せられたような感覚がして、桃子が顔を上げると、目の前に優しそうな顔をしたまつりの顔があって、載せられているのはまつりの掌だということに気づいた。思わず身を引こうとしたが、まつりにじっと見つめられて桃子は動けない。
「でも、桃子ちゃんは、とても頑張っているのです。それは当たり前、じゃないのです。もっと自分を褒めてあげるのですよ?」
他ならぬまつりに、そんなことを言われて桃子は恥ずかしくなって赤面してしまった。なにより、何かを見透かされているような気がして居心地が悪い。踏み台が欲しかった。
「……うん、ありがとう」
それでも、なにも言わないのはそれこそ負けてしまうような気がしたから、桃子はまつりにだけ聴こえるぐらいの声でそう答えた。それを聞いて満足したようで、まつりは手を桃子から離して立ち上がった。
それから真に連れられて雪歩が退場すると共に、その日は解散となった。
駅に向かうバスの中で、そういえばまつりはなんであの部屋に来たんだろうと桃子はふと考える。真にたまたま付いてきただけなのかもしれない。頭に乗せられた手の感触はまだ残っていて、そして目の前にあった顔を思い出し、そういえば自分とちゃんと目線を合わせてくれいたんだということに気づき、やっぱりなんだか負けたような気がして、そしてそれが全く嫌な気持ちではないことが、余計に悔しかった。