二〇一三年四月
周防桃子は十歳で、今の所属は765プロダクションで、「アイドル」という肩書きを持っている。自分の肩書きがあることに抵抗はなく、むしろまだ肩書きを持っていなかった頃を思い出すことの方が桃子にとっては難しい。
桃子は女優だった。初めて出演した映画で、スクリーンの中で自分が動き、話しているのを見ることに最初こそ気恥ずかしさを覚えたが、それでも、エンドロールで自分の名前を見つけたときにはそれは誇らしさに変わっていた。彼女はその瞬間に自分が女優であるとはっきりと自覚した。
今、桃子は撮影スタジオの楽屋に居て、鏡台の前に座って目を瞑り、その瞬間を思い出している。これから桃子が臨むのはアイドルになって初めての写真撮影。緊張は、ない。カメラを向けられることは桃子の日常だった。たとえ肩書きが変わっても、その経験は無くならない。「女優」という肩書きは今も彼女の内にあった。何をすれば良いかはわかっている。求められたポーズ、求められた表情に、「周防桃子らしさ」をトッピングして表現すればいい。その辺のカンはとっくの昔に掴んでいる。
目を開ける。鏡に映る自分の表情を見る。自然な表情をしているはず、と思っていた桃子は鏡の中に不安な表情の影を見つけて驚く。なんでだろう、と思った端で、彼女のアイドル活動の責任者、プロデューサーが未だ姿を見せないことに思い当たる。鏡の中の表情がはっきりと苛立ちに変わり、桃子は少し安心する。
「まったく、お兄ちゃんったら」
声に出すことで苛立ちを憤りへ昇華させる。衣装合わせとメイクが終わってからもう三十分は経つ。前の子の撮影が終わったら呼ぶから、と言って去って行ったが、それにしても遅すぎる。
こうなったら様子を見てきてやろう。桃子は鏡台の前の椅子から降りて、ずんずんと楽屋の入り口へ向かう。
「ほ? 何を困っているのです? お姫様のお願いなのですよ?」
外から声が聞こえてきて、ドアノブにかけた手が止まった。一度聞いたら耳に残る、ふわふわとした甘い声。
音を立てないよう、慎重にドアを少しだけ開ける。
隙間から覗くと、こちらを向いた甘い声の主と後ろ姿のプロデューサーが廊下で対峙している。声の主は両手を前に差し出しながら、ゆっくりとプロデューサーに近づき、同じペースでプロデューサーは後退するから、二人の距離はそのままに、桃子との距離だけが近づいていく。だから気づかれないためには扉を閉めるべきだったのだが、桃子は我儘なお姫様から目が離せない。
お姫様の名前は徳川まつり。そして桃子は彼女が苦手だった。
ドアの隙間越しに、目と目が合った瞬間に、まつりは桃子に悪戯っぽく笑いかけて、桃子は逃げるようにバタンとドアを閉めた。
◇◇◇
「もういいから、ちょっと静かにしててもらえる? 桃子、疲れちゃったの」
撮影後の帰りのタクシーの中、助手席から撮影が押したことに対する今日何度目かの謝罪を口にしたプロデューサーを黙らせ、桃子は後部座席で流れる景色を見ている。思い返すのはいざ始まってしまえば順調そのものだった撮影のことではなく、ふわふわの声をしたお姫様のことで、あの笑顔を思い返すとどうにも落ち着かなくなる。
桃子に「アイドル」の肩書きがついたのは一か月前だ。
「MILLIONSTARS」という765プロダクションの新しい企画があり、新人のアイドルを募集していた、ということは面接に合格してから知ったことで、桃子は面接を受けるまで女優の仕事が再開できるということしか聞いてなかった。
桃子のように個人の伝手で面接を受けた人は稀で、オーディションを受けたりプロデューサーにスカウトされたりした人が圧倒的に多く、また、芸能業界での経験があるのは桃子だけだった。
事前にメールで送られてきていたメンバーのプロフィールシートを桃子は入念に目を通していた。これから仕事を共にする同僚のことはできる限りちゃんと把握しておくことが業界の先輩として、つまりプロとして当然だと思っていた。
名前、生年月日、身長、血液型、出身地に加えて趣味、特技の欄があって、そこに「演技」と書いている人がいて桃子は少し気持ちが浮わついた。アイドルでも演技ができる、というのは面接時のプロデューサーの言で、それを疑っていたわけではなかったが、こうやってプロフィールに書く人がいるのであれば、桃子がそこにいることも間違いではないという気持ちにさせてくれた。そのプロフィールシートの名前の欄には「徳川まつり」と書いてあった。
「初めましてなのです! まつりは、徳川まつりという名前なのです。わんだほーでびゅーてぃほーなお姫様なのですよ?」
シアターでの初顔合わせのとき、真紅と白を基調としたロリータファッションの出で立ちで、可愛らしいウィンクとともにそう言い放ったまつりを見て、桃子はあっけにとられていた。特技の欄に書いてあった「演技」とはそういうことだったのか。桃子は反射的に「違う」と感じてしまった。それが何故なのかはその時の桃子にはまだ具体的に言葉にできなかったが、裏切られたという感じだけは確かなもので、しかしもちろんまつりは全く悪くないということが桃子にもわかっているから、それ以降極力まつりには近づかないでおこうと桃子は決めていた。一方でまつりは桃子に対して、会う度ににこやかに笑いかけてくれるため、気まずさは日に日に増していくばかりだった。
ふと、プロデューサーがタクシーのラジオのチャンネルを合わせると、天海春香と春日未来がゲスト出演している番組が流れてくる。話している内容はMILLIONSTARSについての宣伝だ。ラジオDJと春香がメインで会話を回して、未来が話を振られると本当に楽しそうに反応して、プロデューサーはところどころで頷きつつ、手元にメモを取りながら聴いている。ちゃんと仕事してるんだ、と桃子は少しプロデューサーを見直す。十分ほどのフリートークのコーナーが終わり、最後にシアターの宣伝から曲紹介「それではお聴きください、MILLIONSTARS、記念すべき最初の曲です!」、流れ始めた『Thank You!』をBGMにプロデューサーが桃子に話しかける。
「なあ桃子」
「黙っててって言ったでしょ。……なあに、お兄ちゃん」
しばしの沈黙。流れてくる曲が沈黙を際立たせているように感じる。桃子の苛立ちが再発する。言いたいことがあるのであればもっとはっきりと言えばいいのに、と桃子は思う。
「アイドル、好きになれそうか?」
「……まだ、わからないよ、そんなの」
そして沈黙を経て得られた会話は再び沈黙を連れてきて、そのままタクシーは新宿駅前の小田急小田原線改札口近くで停車して桃子を下ろした。この後はプロデューサーを乗せて事務所まで向かうらしい。
「それじゃ、お疲れ様、お兄ちゃん」の一言で別れを告げた桃子はのまま改札口に入り、駅のホームから丁度出発する、クリーム寄りの白色の側面に青い線が一本走る車体の電車に乗る。十五分ほど揺られて到着する駅はそろそろ夕刻といっても良い時間に差し掛かり、一日を終えようとしている学生が行き来している。そんな中桃子は改札を出たところに立つ、白シャツにベージュのロングフレアスカートの出で立ちの女性を見つける。女性も桃子のことを見つけたようで桃子に向かって小さく手を振っている。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、桃子」
にっこり笑う母親に桃子も笑いかける。それはプロデューサーの前では決して見せないような笑顔だ。
桃子と母親は手を繋いで家路につく。駅前から少し歩くだけで喧騒は遠ざかり、周りは塀の高い家が並ぶ住宅地になる。桃子は歩きながら今日の自分の仕事を母親に報告し、母親はニコニコしながら桃子の話を聞いている。桃子の声はずっと弾んでいる。
桃子の家はそんな住宅街の中にある分譲マンションで、間取りは3LDKの角部屋で、玄関から伸びた廊下の一番奥の扉の先にダイニングがあり、母親より先に入った桃子はダイニングテーブルの上にラップのかかった皿を見つけて歓声を上げる。
「あ、ホットケーキ!」
「ええ、今日は撮影のお仕事だったんでしょ? 久しぶりだし、きっと疲れてるかなって思って、迎えに行く前に作っておいたの」
桃子は母親のホットケーキが好きだ。あまり甘すぎず、焼き加減もふっくらしていて、食べると幸せな気持ちになれる。
ホットケーキは桃子が子役として活躍している頃から、「お仕事」が終わるといつも母親が作ってくれているものだ。
「お父さんのことも、このホットケーキで落としたのよ」
なんてことを冗談交じりに話していたこともあって、意外にも甘党であることを恥ずかしく思ったのか、それを言うのはやめてくれと弱った顔をしていた父親のことを桃子は覚えている。
桃子がホットケーキをほおばっている間、着替えてエプロンを付けた母親はキッチンに立って夕飯の準備を始めている。流しの水の音と包丁でまな板を叩く音が聞こえてきて、桃子は今日も一日が終わって行くんだということを思う。
「お母さん」
「ん、なあに、桃子」
「お父さん、今度はいつ頃帰ってくるのかな」
「……今、すごく忙しいらしくて。まだわからないんだって」
「そう、なんだ」
度重なる長期出張で、最近、桃子は父親の顔をほとんど見ていなかった。電話やメールで連絡は取っているものの、たいてい留守電だったり、返信まで時間がかかったりしていて、反応はあまり芳しくない。
そして、きっとそれは自分のせいなのだろうと桃子は思っていた。
半年前、所属していた事務所からの解約が決まったと両親から知らされた時、続けていく意思を両親から問われ、迷いなく頷いた桃子を見て、母親は嬉しそうな泣き顔をしていて、父親は悲しそうに笑っていた。
それが両親の間で決定的なものであったのだと桃子が気づいたのは、父親が家にあまり戻らなくなってからだった。出張が多くなったという話は嘘ではないと思うが、それは桃子が芸能活動を続けることになったことと無関係ではないはずだと桃子は直感していた。
きっと、父親は桃子が芸能活動を続けることに反対だったのだろう。でも、あのとき首を振っていたとしたら悲しむ顔が入れ替わっただけだったということも桃子にはわかる。
だから、桃子はあのとき自分が頷いたことを後悔したくなかった。きっと、自分がちゃんとこれからも上手くやっていければ、父親だって前のように戻ってくると信じたかった。
それが出来るのであれば、「アイドル」という肩書きだって構わない、桃子はそう思っていた。