日: 2023年12月31日

『街とその不確かな壁』/『君たちはどう生きるか』/『推し、燃ゆ』

2023年の備忘録としての走り書き。今年、これらの3作に触れたことが特に印象深かったので。 

 この3作は、私にとっては、同種のことを扱っている作品だった。それは、フィクションに対する態度について、という点で。
 『街とその不確かな壁』の元となった作品の、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、私のフィクションへの態度をを刻んでいる作品のひとつで、「僕」と「影」が分かれて、「僕」が「世界の終り」に留まることを決断するラストシーンは、単純化してしまうと「フィクション」と「現実」を対比し、そして、「フィクション」の側にこそ”敢えて”選ぶ価値があるという価値観、態度への強い影響があった。
 ただ、それから10年以上経って、その”敢えて”という態度はだんだんと持たなくなってしまった。いい加減に、なにかしらの結論を出さなければならない時期が来たのだと思う。そして、この3作はその手助けをしてくれた。

 ある絶対的な距離がある対象に対して熱量を注ぎ込み、解釈をする行為こそが自分を支え、形作っていることを、『推し、燃ゆ』は「背骨」と書いたが、そうやって、何も残さない、そもそも、残すということを前提としないような、日々を生きるために、フィクションを消費していくような態度には、自分は、やはり、どうしてもそうはなれなかった。

 『街とその不確かな壁』の最後、主人公である「私」(もはや「僕」ではない)は少年を後継者として街(=世界の終り)を出ていく。『君たちはどう生きるか』で、眞人は大叔父の「自分の世界を作って欲しい」という誘いを断り、現実へ戻っていく。どちらにせよ、「フィクション」は選ばれなかった。それでは、あくまで、余暇を消費するものとしてとらえ、それ以上に意味があるものとしては諦めるべきなのか。

 私にとって、救いというか、良いなと思ったのは『君たちはどう生きるか』において、眞人が小説の『君たちはどう生きるか』を読んで行動を起こしたことだ。そしてそのことが、結果的には、眞人にとって、よりよく生きようという意思を持つきっかけにもなった。

 結局のところ、私は、良く生きたいという願望を、諦めきれないのだ。そして、フィクションは、おそらく、私の中で、その願望と結びついている。それを「認めること」が、現時点での、私にとっての、フィクションへの態度として妥当のように思うし、これからも触れ続けることの、理由にもなるだろう。